なんなん普通の自己紹介
ようこそなんなんちゃんねるへ。
こんにちは。なんなん(@nannanchannel)です。
1968年生まれ。新潟県中越地方住まいです。
夫と二十歳くらいの子供が2人います。
どうぞよろしくお願いします。
職歴
- 中学校音楽教員3年
- 音楽教室、自宅でピアノ指導を少々
- 学習塾講師(パート・10年くらい)
- クラウドソーシングライター(2016春〜)
15才まで
いきなりの話題ですが、父親→母親のDVがひどく、長女として苦労しました。
1年のうち3〜4日、季節の変わり目で4回で計16日間、人格豹変したように父は母を殴ったり、食卓をひっくり返したりしていました。
子供だった私と弟はこの期間、怖くて怖くて毎日、泣いて暮らしました。
母の話によると、私や弟が小さいとき、危ないため母子で近所の家に泊めてもらったり、海を渡って佐渡島に逃げたりしたことがあったようです。
しかし残りの365 ー 16日(340日)は、収入がやや少ないながらも平穏に暮らしていました。
私自身はおどおどした性格の子供で、小学校の授業で、答えがわかったから手をあげたのに、指名されると何を話したらいいのかわからず頭が真っ白になり、下を向いて黙りこくることがよくありました。
両親が「単語」でしか会話しなかったため、言葉をつないで話すのが苦手な子供だったようです。
小6のクラスで女子3人のグループができ、1人の大人しく可愛い子を取り合うのに気疲れしてしまいました。
中学校に上がったのをきっかけに、中1デビューで明るい仮面をかぶって「キャラ変」することにしました。
授業中にはコソコソ話で私語を楽しみ、手紙を回し、先生の話を聞かずにノートだけ書いて教科書で自習。
中学では先生に授業態度が悪いと叱られ、高校では男子に「あの女子うるさい」と文句を言われ。
教科書や学校教材を使った自習力を生かして、何よりも「孤立しないこと」を第一の目標にする、女子としての中学生活を送りました。
20才まで
近くの普通科高校に進学しましたが、大学と学部選びが少々ミスマッチな選択でした。
ピアノを専門とする科に進んだのですが、学力の配点が高くて入学可能とはいえ、私にとってピアノはそれほど得意なことではないと、当時まだ気づけませんでした。
近所の先生にピアノを習っていたのですが、高校1年生の秋に「地元の教育学部ピアノ科に進学しない?」とスカウト。
母親に相談したら「いいんじゃない?」と言うので、模試の結果で「国立大の薬学部、無理そう・・・」と1週間で承諾。
最初に書いた「父親のDV」で自宅にいるのが嫌で、「親からお金を出してもらえて家を出られるのだったら大学なんてどこだっていい」と、進路決定のエネルギーを削がれていたのもありました。
楽譜の読み方テスト(楽典)、ソルフェージュ(ぱっとみてすぐ歌う)など、2次試験準備が始まりました。
音楽科あるあるの話ですが、受験大学の非常勤講師の先生を紹介してもらい、遠くまで出向いて教えてもらうという「つながり」を作らされ、「音楽の受験やめます」と言いだしづらくなりました。
高校2年まで理科:物理・化学選択、社会:地理のガチの理系クラスにいたため、模試の志望校で「東京理科大」「東工大」などと書いて、科目不足のG判定をよくもらいました。
センター試験の前身、共通一次の自己採点は、英語154、数学180、国語110、理科(化学)143、社会(地理)159、計746/1000(各200)というスコアでした。
中学までは国語が10点低く、他の教科がほぼ同じ点数(英、社は覚えて真似すれば何とかなる)で、何が得意か不得意か、はっきりしませんでした。
現在でもマルチタイプ、何でもそこそこまではやるけど、突出して得意なものがないというのは、自分の特徴だと思っています。
ピアノの前に座っているこの写真からも、学校や町の先生までは対応可能だし頼まれれば少しは弾けるけど、ショパンエチュードにバラードにスケルツォにと、何でもバリバリ弾きこなすピアニストほど技術があるではないのが伝わると思います。
大学進学当時の経済状況ですが、父親の収入が少なく国立大学の学費が半額免除、大学2年の時に父が突然会社をやめて無職に、学費は全額免除(たしか1年半)。
高校在学中に無利子の育英会奨学金の審査が通り、記憶によると130万円くらい借りました。
後述しますが3年ほど教職についたため返済額が80万円まで減り、退職後に一括返済しました。
30才まで
大学卒業後、中学校の教員を3年間やりました。
当時、音楽の先生は生徒にとても甘くみられていて、授業崩壊が残っていた時代でした。
「音楽でなく数学の先生になればよかった…」と思いました。
副免許もとれたのですが、かけもちのしやすい国語で取る人はいましたが、数学や英語で取る学生はまずいません。
副免許は無難に小学校の校種でとりました。
音楽の先生といえば「吹奏楽部」の指導が必須です。
ところが私は大学時代、直属の先生に「吹奏楽禁止!」を言い渡されたため、高校でやっていた吹奏楽をやめてしまいました。
吹奏楽部の指導は、全パートのスコア譜を読み、音楽全体を整えなければならなく、実技経験は絶対に必要です。
「吹奏楽もまともに教えられない音楽の先生なんて、現場にいらないよな…」という本心をかかえつつ、3年目の3月31日付けで、結婚退職という表向きのよい公務員リタイヤをしました。
40才まで
25才、29才で子供を出産しましたので、ひたすら自宅で「子育て」をしていました。
退職して2年間、ピアノの雇われ講師で月8万円くらいのパート収入がありました。
とても恵まれた仕事だったのですが、夫の転勤とともに転居、その仕事を続けられなくなりました。
雇われ先で腰の曲がったおばあちゃんに、1才前の子供まで預かってもらえてたのに・・・もったいない。
上の子5才、下の子2才のとき、ワンオペ育児とピアノでの身体的故障で疲れてしまい、躁うつ病・双極性障害という病気・障害にかかってしまいました。
真夏に突如、挙動不審なおしゃべりマンになり、3か月かかって薬で抑えたあとは、まあまあそこそこな病状で暮らしています。
治りの悪い精神疾患にかかったことは、当時専業主婦だったとはいえ私の生活の質にしばりをかけることになりましたので、機会あればまた何かしら書いていこうと思います。
ここ10年の投薬はDo処方で通院は2〜3か月おき、炭酸リチウム200か400mg/day、フルニトラゼパム(=ロヒプノール、サイレース)1mg前後で適当に調整しています。
50才まで
「40才すぎたらどこにも雇ってもらえなくなるかも」とふと思い、近くの学習塾に電話で問い合わせました。
担当の方から「高専(大学に相当する専科生)の方もバイトに来てますよ。」のひとことで、私はこの塾の採用試験を受けに行くことにしました。
その年の春、うちの上の子供が国立高専受験に失敗したからです。
「高専の学生さんがどんなに優秀なのか、会ってこの目で確かめたい」と強く思いました。
何年かごとに入れ替わりできてくれる学生さん、優秀で即戦力、いつも頼りにしています。
受験で落ちてしまった上の子供も、無理に入れようとしなくてよかったと親子で納得しています。
50才以降にやりたいこと
ミニーちゃんと。撮影の後に別所(シェフミッキーでなくホライズンベイレストラン)で会った時に、写真のSNS掲載許可をもらいました。
48才ころ、SOHOにあたるのでしょうか、クラウドソーシングという仕組みを知り、ライターとして文章を納品する仕事を始めました。
2人のクライアント様と1年前から仕事を続けていて、どちらも7割以上わたし一人で書いている立ち上げサイトです。
インターネット上に知識がのっているとはいえ、私よりわかっている人に引き上げてもらい勉強させてもらっています。
ライターをしつつ、プログラミングの勉強を始めました。
ドットインストールという動画(有料あり)のほか、cloud9という仕組みをしり狂喜乱舞しているところです。
趣味で終わるか小さな仕事ができるのかわかりませんが、その日にできることを1つずつマイペースでやっていけたらなと思っています。
ごはんもちゃんと作りたいです。ダイエットにもつながるかなと。
さいごに
Welcome to nannanchannel !! どうぞよろしくお願いします!
ディズニー好きなので「ディズニー自己紹介」も書いてあります。